昭和45年4月14日 夜 8分
真心を込めて御先祖のお祭りをさせてもらうということは、本当に有り難いことでありますし、ですからそういう事が神様大喜び、ご先祖の大喜びになるにいって、おかげを頂く、頂き良い状況がそこに出来てくる。
神様の時も御霊様の時もそうです。神様に喜び、御霊様の喜びがおかげを受けられる例えば遺族の者が本当におかげの頂けれる状態が生まれてくるのですから。今度は、遺族の者としては、たとえばそのお祭りならお祭りを境に一段と改まって、本当にそのおかげを受け止めて、始めて私共が喜べれるというおかげになってくるわけですがね。
昨日私、神様に今日の御霊様の事をお願いさせて頂きよりましたら、あの『桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿』ということを頂いたんですけどね。桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿と。桜というのは、切ったら、そこから枯れてくるものらしいね。だから桜の間はおっちゃならない、桜を折ったら、そこから少しでも枝を切ったら、それからもう幹の方が枯れてしまうといわれるぐらいなものらしいね。そして、梅というのはもう出来るだけ、切らにゃいかん、幹だけ『 (?) 』つまらなければ、明くる年がさかんと言われている。
そこで、私はどういうことだろうかと、こぉ思わせてもらうのにね、あの梅切らぬ馬鹿というのはね、これぞ神様が喜んで下さることだ、御霊様が喜んで下さる事だと。これが徳になる、いわえる梅ということは徳になるという事。梅の宮御徳とおっしゃるのですから。ですから、もうこここそ、本気で打ち込まなければならんところには、どれほど切っても良いということ。
けれどもね、たださかんなのにぱぁっとしたようなことに使うというかね。車ならお金ならお金でも良い。これはいわえる御徳にならない、ただそのときだけの、例えばおかげ的な後は散ってしまうようなことのためのことに切ることはこれは、いけないじゃなくて、それを切ったらね、そこからその枯れてくる。
だから、私はそういうことを例えば、内田の所の例で、どんなことになるんだろうかと思ったら、この頃、ご本部参拝の帰りに、浩一ちゃんが、中で、五十人の者の人に、づっと頂いて下さいというてから、パンの差し入れるをしました。
こげなんことをせんでも良いのに、と見たけれども、まぁとにかく頂いて下さいと、大きな箱に一杯持って来ておった。その時のことを頂くんですよね。なるほど、ほんに浩一ちゃんは行き届いた人だとこぉ言うけれども、私は本当に一人ひとりのそのパンを頂いてから、果たして皆がどれだけ喜んだだろうかとこぉ思うのですよね。
これはやっぱり桜切る馬鹿ですよ。ですからね、私共はそこに『 (?) 』人間の『 (?) 』関係で、そういうところにお尽しい、行き過ぎるところがあるですね。
だからそこから、桜が枯れてくるようなね、おかげになって、せっかく神様に喜んで下さる、御霊様の喜びが返っておかげが頂けようとするところにですね、そのおかげを枯れかしてしまう。これは私はいつも思うのですけれども、家にはどうもそういうめぐりがあるように感じるですね。
そして自分達はそれを良いこととか、美しい事と思っているわけです。これは皆そうなんです。それでなら、本当の例えばそこから返って枯れる元が生まれてくる。だから、ここぞという所にはです、それこそ梅切らぬ馬鹿である。もう本気で切らにゃ。だからそこのところをね、例えば見境がつかないぐらいにある。そこのところを本気で、はぁここは、梅か桜かということをはっきり見極めてね、切らなければいけない。
それはもうその時に切ったほうがですね、内田さん達の場合なんかは、もう自分達が気持ちが良いとですよね。こうちゃん達なんか、あれだけのことをしてから、『 (?) 』と思うてから嬉しいです。
けれども、そういうことはいっちょんおかげにはならんということね。お母様達がそげん言うたら、「いやこのくらいな事はさせてもらわにゃ」と言ってから、言っているんですね、汽車の中で。だからこれは言うならば、馬鹿のごたるこっちゃんけんでさ。桜切りよるようなことじゃから、私は一時が万事。もうなら、あなたかたと、みんな兄弟、皆そうでしょうが。
それでね、なら自分達はそれを本当にあの良い事。また、本当内田さんは美しいかと、普通の者は言いましょうけれども、神様の方は言いなさらんね。だからここのところをぐっと辛抱してですね、辛抱して私は切っちゃならない、もう一修行と思って、もう汚いと言われてちゃ言い。神様から笑わなければ言いという気持ちでね、私はそういう一つのしゅ、ものを内田の家に、どうでも頂かなきゃいかんごたるですね。
私も今日、それと良く似たような事を体験させて頂いたんけど、今日私丁度十時頃だった。ある人のお取次をさせて頂いた。もうこの方は非常に『 (?) 』立つのですよね。もうそのそれをもう話を聞きよると立派なことを思っているけれど、しまいにはですね、もうそれが頭が痛うなってから、話をここで言わば、お届けを聞かせて頂きよったら。それから私は神様の方を向いて、知らん顔をしておったとばってん、こぉやっぱり頭が痛くなって、しまいにはですね、はきけが来たですよ。本当です。もうそれから、この人のことは、もう物事も聞かん『 (?) 』と私はそげなん事を考えておった、ほんなこって。
もうそれはもう、本当に素晴らしい言葉を使って、素晴らしいお届けをしよりなさるけれどもですね、そうしたらね、神様からね「太陽の陽という『 (?) 』光という『 (?) 』を頂いたんですね。
いわえる『 (?) 』がね、こうやってそのひばねを散らしよる。だから、私が頭痛くなったり、はきけがきた。してみると、なら私自身もね、例えばその人のように、おしゃべりかということになってくるわけでしょう。
なら、今日末永さんが言ってますように、毎日毎日の御理解を書かせて頂いて、一番最後にね、思うことは、本当に親先生がこんなに、言うて、こんなにしてまで皆に助かってもらわにゃならんということを『 (?) 』しておられるということがいつも結論だというようにね。
だから、私はご結界ではね、私のおしゃべる本当に活用させて頂いて、有り難く聞いてもらおうとね。私はそういうことを思うてね、先ほど、皆伊万里から菊枝会が、佐田さんが帰って来たから、あのそこで、おおせつ間でお茶を上げさせて頂いて、もうその時『 (?) 』です。そればってん私が、もうとにかくあまりにも有り難いし、今朝の御理解はお道の信心のこのテキストさえ神様がおしゃって下さったから、これはもうこの人達に教えておかないといかんと、一生懸命説いたから聞くのは聞くわけです。けれども、すきがあったらたとうという、言わば丁度私がその方のお届け、お取次をさせて頂く時には、私が頭痛くなるような、私の身にいくら有り難いことでも、向こうに頂ききれない物はね、返って相手に迷惑をかけおる。
もう先ばっかし、若先生にね、だからお父さんがもう本当に言うこと、もう下がる時には必ず信心のことだけれども、今日はこんな有り難い事があって、こうだったと。もうご結界を下がってから、でもそれがそこに人がおりますと、その人をつかまえてお話をするといったような事はもう、今日を限りでやめようと思った。
自分の今までは、それが良いことだと思っておった。これはいうなら。
※ここまでです。途中でテープが終わりました。
※聞き取れない(?)が12個あります。